呆けたまま見上げる美鶴に、澤村優輝がうっすら笑う。
「すきっ腹だったみたいだからね。それにいきなり100%トルエン。ちょっと辛かった? でもクロロホルムみたいなのって、漫画やテレビみたいに都合よく効果が出るかどうかわかんなかったし」
ってか、クロロホルム持ってないし と肩を竦める相手。
下顎がガクガクと震える。
「さっ さわ さわっ――……」
言葉が紡げない。
そんな美鶴に、澤村は瞳を細めて緩やかに笑った。
優しい笑顔だ。
甘く、優しく、なんて場違いな笑顔。
「そんなに嬉しい? 俺に会えて」
もっとも と言葉を添える。
「俺はずっと、見てたんだけどね。君のこと」
「え?」
「見ていたさ」
その瞳が、鋭くなる。激しいに光がギラリと弾ける。
「見ていたよ。ずっと見ていた」
急激に声音が低くなる。
「疎ましくなるくらい、見ていたよ。なぜこの俺が―――」
素早く腰を下ろし、右ひざを床に付く。左手を伸ばして、美鶴の顎を乱暴に掴む。
「お前なんぞを追い回さなきゃならないのか。考えただけでも腹が立つっ!」
突然怒鳴り、顔を投げる。
左頬がジンと痛い。首にも衝撃が走った。捻ったワケではないようだが、そうなってもおかしくはない。
恐怖に瞠目したまま恐る恐る見上げると、澤村はすでに立ち上がっていた。
勢いよく立ち上がったのだろう。背に流れる不揃いな茶髪が、跳ね上がって毛先を散らす。
霞流慎二の髪も長い。そして茶色い。
彼の髪の毛はしなやかで美しい。乱暴に伸ばされた澤村のそれとは違う。
だが、遠目に見れば、見間違えてもおかしくはない。
美鶴の周囲でチラついた、霞流慎二の幻の存在。
あれは幻影などではなかったのか。
驚愕しながら、だが美鶴は必死に否定する。
霞流さんの髪は、こんなんじゃないっ
色を言えば慎二の方がまだ黒い。だが、金糸のように美しく艶やかだ。
そう、澤村の髪には艶がない。髪にも頬にも唇にも。全身がどことなく乾燥していて、瑞々しさが欠乏している。
「気に入らない」
再び光を背後から受け、そのシルエットだけが浮かび上がる。
教科書で見た、日食か月食のようだ。
「なぜ俺よりも、お前なんだ? なぜ俺がっ!」
再び叫ぶのと同時、ギィと重い音が響く。
澤村が勢い良く振り返る。美鶴も視線だけを動かす。
それが部屋の入り口だろうか? ゆっくりと押し開けられた扉に腕を添え、もう片方を胸に添え―――
そうだ。怯えている時などは、よくそうやって片手を胸に添えていたものだ。
澤村とは逆に光を真正面から受け、子犬のような愛くるしい瞳が大きく揺れた。
そう―――
その大きな黒い瞳も、腰までの緩いウェーブの髪も、均整の取れたスタイルも、なにもかもが変わっていない。
ただ一つ、テニスで健康的に焼けていた肌は、今はゆるゆると白さを取り戻している。
美鶴が、焼けてはもったいないと思った白い肌。
美鶴の知っている――――……
「りっ」
その先の、言葉が出ない。
忘れてしまいたかった名前。
驚愕したまま硬直する美鶴。その姿へ視線を向け、少女―― シロちゃん――― 田代里奈は悲鳴をあげた。
------------ 第6章 雲隠れ (前編) [ 完 ] ------------
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